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一芸に秀でる [日々思うこと]

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大人になって
つーか
たぶん今も
馴染めないこと。
なんつーか
今風に言えば
「いいね!」の数を多く集めたほうが「勝ち」のような価値観。
どんなジャンルでも
タイマンを張れる人が好きだ。
一対一の勝負が好きだ。
どんなマニアックなことでも
一芸に秀でた人が好きだ。
なんつーか
「屁」のような、
ただ、ただ
集団の中で上手く泳ぐスキルを持ったお方より
不器用で、イマイチの評価でも
実力がある人間が好きだ。

道を逸れると
色々と大変なことも多いが
色々と面白いものにも出会うことも多い。
今となっては
真面目だけが取り得のような顔をして
そんな顔して生きてはおりますが
思い出してみると
中々、これが。


遡ること27年前。
17歳。
多摩地区でも有名な
「おバカ」高校在学中。
そこかしこ
バカばっかり。
学校にも、学校の外にも、駅にも、パチンコ屋にも、スーパーにも、パン屋にも
バカばっかり。
そんな中、
授業を抜けて
学校近くの公園で
バカ集合。
くだらない話、ハッタリ話 、退屈な時間。
そんな矢先、
鉢合わせた二人のおバカ。
体育の時間に
ボールを当てたとか、蹴りが入ったとか
そんな理由で
おバカ同士タイマン勃発。
一人は同じクラスのN。
身長約180cm体重推定85キロ。
堂々たる巨漢。
対するは隣のクラスのH。
身長約170cm体重推定70キロ。
体格的には勝負はキツイか、といった感じ。
ただ、このH
体格はさほどでもないものの
絵に描いたようなヤンキー顔で
見た目そのままヤンキーとしても名は通っていた。
さあ
お手並み拝見。
バカ同士の喧嘩を
何人かのバカが取り巻く。
序盤
圧倒的な体力の差で
勝負はすぐ着くかと思われた。

H、執拗に、執拗に
ピンポイントでNの鼻を狙い打つ。
時に殴られ、締められ、投げれても
ひるまず、
同じ場所を殴り続ける。
Nの鼻から流血、たまらずHを引き倒し
馬乗りになろうとした瞬間、
今度はH、倒れながらもうま~く足を絡ませてNを転ばせ
そしてまたもやNの鼻を狙い撃ち。
Hの顔も腫れてきたものの
Nの鼻からも鮮血が迸る。
結局は頃合を見計らって勝負引き分け。
ただ感想としは
あの体格差での闘い
スポーツならHの勝ちといったところか。

喧嘩など
褒められたものでなく
忌み嫌われるものであるかも知れない。

あの時のHの闘いぶりは
ある種「芸術的」とも言える部分があった。
感じたのは
圧倒的な
「ケンカ慣れ」。
何事も
習うより慣れろ
は本当で
どんなことであれ
経験を積んで、上達に至るものに興味と共感を感じてしまう。
体格で劣る者が闘う場合の
一つのお手本のようにも感じた。
ただ
いくらその作戦が良くても
攻撃を受けながら
あのようにピンポイントで
同じ場所を打ち続ける、というのは
強い精神力と冷静な気持ちが無いと不可能である。
突然勃発するケンカ。
相手はどれくらい強いのか
キレて訳がわからなくなるタイプか
仲間が近くにいるのか
多くは、
全く情報がない状態でゴングは鳴る。
そんなカオスな状況の中で
強気を保ち、冷静である
というのは今思い出しても並大抵のことではない。
大概は
ただ、ただ
興奮だけを頼りに暴れるだけになってしまう。

あのケンカは
獣同士が
これ以上やると致命傷に至り
双方にとって利益がないと
不意にその闘いを止めるような
そんな
互いの呼吸感のようなものもあり
男同士のタイマン勝負としては
理想的な闘いとも思えた。
懐かしい青春時代のひとコマ。
双方に拍手を贈りたい。










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村八分 [日々思うこと]

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僕が子供だったころ
もう兎に角
主張していました。
存在を主張していました。
身体を張って
目立つことに命を懸けていました。(笑)
44歳にして
ちょっと言ってしまうのは
恥ずかしかったりすのですが
喧嘩上等でした。
そんな暴力的な主張をすると
やはり
それ相応に
周りからのエコーがあり
「あの野郎、いつかシメる」
「ぶっ飛ばす」
「ふざけやがって」
「あのデカイ野郎」
「殺す」
「$#%%!%?*+??$#&!」
色々な噂を人事のように
人づてに良く聞きました(笑)
しかし思い出してみれば
ここだけの話し
恐かったですよ、やはり。(笑)
そんな話しを終始強気な態度を崩さず聞いていたものの
心臓ドキドキしていました。
時に、
言葉だけでは済まず
顔面ボコボコになったりもしました。(笑)
そんな
敵多き青春時代を送ってきたので
社会人になってからの仕事上での
陰口や村八分、四面楚歌などは
「屁」みたいなものでした(笑)
拳や蹴りが飛んでこない分
むしろそういった複雑で微妙な敵意には鈍感でした。

相変わらず
僕は愚かで
幼稚に
短気で
ヘタクソに
自己流で
不恰好に
変わらず歩いています。
よくこんなんで
ここまでこれたものだと
ご先祖さまに感謝してしまうこと多々です。
鏡を見ると
微妙に鼻が曲がっており
尖がっていたことの代償のように感じ
ちょっとの後悔なども
人なみにあったりするのですが
振り返ってみますと
僕の歩いて来た道以外
実は選択肢などなく
あの時ああすれば良かったなどと
そんな風に思うことは
実に無意味だなとも同時に思います。
道は今までも
これからも
ただ一筋
僕の後ろと前に
漠然と続いているのかと。






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遺書 [日々思うこと]

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誰に向けて
という訳でなく
なんとなく
見たことや聞いたこと
感じたことや、体験したこと
作ったもの
それらを並べてみたくなり
2008年の6月から
始めましたこのブログ
不定期で
最近はほとんど更新もしていませんが
気がつけば七年の月日が流れていました。
最近強く思うこと
それは
生きて、生きて 生き抜いてやる
と、いうこと。
タイトルに遺書などとつけたものの
遺書などは残さず
死の一秒前まで
生のみを考え、
不可能を可能にすることのみに
全能力を集中させよう
そんな風に胸に誓ってしまいました。
この肉体を
この感性を
フルに使って
「実現する喜び」へ
ただひたすら
全力で。
「不可能」
という僕の中に住む巨悪と対峙し
そして
必ず勝利してやる。
ただひたすら
全力で。




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青春 [日々思うこと]

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ハイロウズの「青春」が好きだ。
やんちゃをしていた時のことを
思い出してしまう。
先輩と喧嘩になる。
僕の場合、身に降る火の粉を払ったわけではなかったが
外に連れ出した
すると
先輩たち、体育の授業で
二クラスお外に集合中。
「この野郎、一年じゃねぇか」
当然のように
大勢の先輩達に囲まれて
体育館裏へ移動(笑)
つるんでいた友達2人
僕に付き合って体育館裏へ一緒に。
喧嘩をふっかけたのは僕であって
あの場合、
それとなく
いなくなっても良いシチュエーションなのに
付き合ってくれた。
あれは
この先一生忘れない。
もう遊んだりしなくなってしまったけど
あいつらは
永遠の友達だ。
運良く
ホントに運良く
その場は切り抜けて
袋叩きにはならなくてすんだけど
囲まれた三年の先輩の中に
ロッキー3に出でくる「ドラゴ」のような先輩がいて
しばらくビビッて
いつも警棒を持ち歩いていたっけ。(笑)

心のないやさしさは敗北に似てる
という歌詞のところになると
いつも決まって泣きそうになって
上手く歌えなくなる。
何故なんだろう
この気持ちは何だろう。
15歳の頃の僕は
今の僕を見たら
何と言うだろうか。

まーしーの歌詞ってすげぇなぁ。



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意思力 [日々思うこと]

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最近Web上でも「モーラー奏法」で検索をかけると多数のサイトがヒットする。
人間はとかく向上を望む生き物で、ノンビリ屋の僕でさえ、その習性は否めない。
もう少しドラムが上手くなりたい、と思い取り組み始めたモーラ奏法。
長く続けていると何事も良い事があるもので
この奏法を勉強しだしてから自分のドラミングで一番良くなってきた部分は
一言でいえばダイナミクス。
強い音と弱い音、双方の音を同じ力で演奏できるようになってきたように思う。
音楽に興味のない方にはなんだかどうでもいいような話だが、
このことは演奏する上でかなり重要な要素なのである。
以前の僕は解りやすく言うなら金槌で釘を打つ手の動きと大差ない動き、
肘の屈伸を利用した腕の動きであったように思う。
それなりに才能に恵まれていたのか、そのような理にかなっていない動きでも
そこそこに叩けていたのだが、理にかなっていないものはどこかで限界に達する日が来る。
そして限界に達すると、人は疲れを感じてしまうのである。
疲れは人間の最大の敵である。
やはり一つのことを長い間続けて行くには、
「理にかなっている」ことが何より大切だと感じる。
理にかなっていないものは何の前触れも無く、必ず容赦なく淘汰されると思うし
理にかなっているものはそれ自体が快感を伴いどこまでも、どこまでも
歩いて行けるのである。

一歳になる長男が僕のセットに座り、ドラムを叩いている。
まだ小さい彼は、精一杯手を伸ばしタムタムをシンバルを叩いている。
その小さい彼の手をじっと観察すると、腕の動き、グリップが物の見事に
モーラ奏法になっている。
肩が最初の動きの起点になり、尺骨を軸にして橈骨を回転させて
中指を中心にしたミドルフィンガーグリップでドラムを叩いている。
リバウンドをコントロールする人差し指のかけかたさえモーラそのものだ。
僕が長い時間をかけて習得した動き、グリップを
まだこの世に誕生して2年にも満たない長男が
ごく自然にやってのけている。
長男が天才だと言う話ではない。
彼にとって、僕のスティックは鉄筋のような重さであろう。
非力な彼がそのような重いスティックで「叩く」という動作をするには
骨格や筋肉など、人体の構造上
理にかなっている動かし方でなくてはできないのである。

ハイハイを卒業し、二足歩行ができるようになった1歳〜2歳くらいの子供の
立ち姿は本当に美しい。
彼らの骨、筋肉はまだまだ未発達である。
であるが故に、どこにも力みを感じさせず、
すっく と立っている。
重い頭をまるで背骨という棒に乗っけてそれを落とさないように
バランスをとるような
それでいて重心は骨盤にしっかりと乗っているような
本当に美しい立ち姿で、
これはどの子にも共通していることのように思う。

人は元々美しく、理にかなっている存在であると思う。
小さな子供はなによりもその事を僕の目の前で表現し、実証してくれている。
「意思」など無用だ。
「意思力」の力などたかが知れている。
こうしてやろう、ああしてやろう、などという企みが
背骨を曲げ、骨盤を歪め、快感を奪い、感動を妨げている。
ただ ただ 
祝い そして踊り 泣きわめき 酔いしれて
捧げる。
そんな毎日でありたいな
などと思う今日この頃である。

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嫌な人 嫌な事 [日々思うこと]

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嫌な人 
嫌な事
たしかにそれは存在していて
時に打ちのめされたり
ヒドいときなどは
生きる事までなんだか嫌になったりもする。

僕は甘ったれで

自尊心は人知れず高く

独断と偏見が多く

自己評価も

人が?
っというくらい高かったりする。

ようはこの世で一番自分が好きという

ダメ人間の王道を闊歩していくような性格だと自負している。

そんな性格というのもあるのか、嫌いな人も多い。
(当然、僕を嫌いな人も多いはずだ)

いったん嫌いになると

好きになろうと努力すればするほど

その人のことが許せないほど嫌いになる。

この辺はもう理屈ではなく
生理現象。

だけどたまに思う。

嫌いな人 というのはどこか自分に似ていたりする。

近親憎悪とでもいうのか。

全く自分に無いものを持っている人は

普通に好きになったりするもんな。


だけど だけど
この
嫌な人
嫌な事
が存在するからこそ

また
好きな人
好きな事
もまた存在するのだな、と最近思う。

そして そして
好きな人
好きな事よりも

嫌な人
嫌な事は
自分が目指す未来というものを
お互いの意図を超えて指してくれる場合もある
と最近思う。

好きな人
好きな事
には未来も過去もなく
ただその時間を
現在を
やさしさと共に静かに祝っているだけだ。
それはエネルギーとしては
何処にもいかない
静的なエネルギーだ、僕にとって。

一方、
嫌な人
嫌な事は
あまり共に過ごす時間が長いと
精神に支障をきたす。
なので生命としては当然
自己を守るために
なにか選択をし、行動する必要が出てくる。
これは動的エネルギーだ、僕にとって。

残念だが
非常に残念だが
好きな人、
好きな事だけの世界など無かった。
そりゃそうだ。
どちらも必要だ
っというか
それこそが
健全な考え方だ、っと思ったりする。
普通の大人にとっては
当たり前の事なのかも知れないが
最近になって
素直にそう思うようになった。










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 [日々思うこと]

2008-0406 202.jpg

僕は 箸が上手く持てない。
物心ついてからずっと同じ持ち方だ。
基本となる箸の持ち方と比べると随分と変な持ち方らしく、
まじまじと僕の持ち方を見た人からは
「よくそれで食べられるね~」
と笑われる。
大体僕は人からものを教わるのが苦手で、
おそらく箸の持ち方も習ったものの、勝手に自分の持ち方で持ち始めて
今に至るのだろう。
ただ食事をするのに不便はないのである。
小豆なども箸でつかめるし、つかめないものは
ほぼないと思う。
あれは25~26才くらいの時だったか。
突然、正しい箸の持ち方をやってみたくなり、
一人食卓に向かい練習したことがある。
そのこと自体は新鮮でしばらくはその新しい感触を楽しんだのだが
途中でめんどくさくなり すぐやめた。
その頃の僕は肩までかかる長髪に、常にグラサンという
かなり怪しい&いかがわしい&こわもて なキャラクターが売りだったので
一人さびしく食卓で正しい箸の持ち方を練習していたことを
思い出すとそのギャップがなんだか面白い。
実に僕らしいエピソードだなぁと思ってしまう。
ある大物ミュージシャンのバックをやった時、
その日僕が穿いていたパンツは最後の一枚だった。
今日こそは洗濯しなければならない。
本番が終わってからはずっとそのことを考えていた。(笑)
そして、綺麗どころから打ち上げのお誘いが。
僕はとっさに今日は洗濯をしなければパンツがない、
と言ってしまった。
みんなの空気がなんとなく白けた感じななったけど(笑)
僕にはかなり切実な問題だったんだよな~。
あれも実に僕らしい話だなぁ。

長女は綺麗に正しく箸を持ち、姿勢正しく食事をする。
誰に似たのか。
まあ僕ではないな 間違いなく。
そしてたまに
「パパの箸の持ち方、違う。こうだよ」
などと誇らしげに生意気に言う。
思わず苦笑いで、たまには大人気なくムキになり
「パパはこれで上手に食べれるも~ん」
などと言い返す。(笑)
LA在住時、寿司を食べていると知らない黒人に
箸の持ち方をからかわれたこともある。
なるほどその黒人、かなりの日本通らしく綺麗に箸を使っていたな(笑)
でもいいのだ。これでいいのだ。
箸の持ち方などこれでいいのだ。
ちなみにスプーン、フォークの持ち方も変らしく
後輩の女の子に
「先輩の持ち方、外人みたいでかっこいい~」
と言われたことがある。
今思うと多少馬鹿にされていたのかなとも思うが、
意味なく嬉しかった記憶があるな。
だからいいのだ。これでいいのだ。

最近食卓に座り全員が集まるのを待っている間、
箸で食器を叩きまくって待っている。(笑)
亡くなってしまったが
ラウドネスのDr.樋口氏もドラムマガジンでこれを推奨していた(笑)
樋口氏もおっしゃっていましたが、箸でできることは間違いなくスティックでもできる。
これは真実である。
食器にはそれぞれピッチがあるので、
食器によっては絶妙なピッチ感が出て、録音したくなる時もあるほど。(笑)

先日、某回転寿司屋でいつものごとく食器を叩き、
「今の凄くねぇ~?」
などと言って調子にのっていたら長女に
「恥ずかしくないの?」
と言われてしまった。
42歳のおっさんが5歳の女の子にである。(笑)
いやぁ~実に僕らしい話だなぁ。
テヘ。


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足跡 [日々思うこと]

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先日生まれて初めて、斧を使って薪割りをした。
最初試みたときは絶対に割れないと思ったが、
やっているうちにコツをつかみ、
面白いように割れるようになった。
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今年、公の存在としての自分は非常にきつかった。
生まれてから今まで一番つらかったといってもいい。
特に年末11月12月はきつかった。
やはり結果が出ない、というのはつらい。
一生懸命やればやるほど、結果が出ないということは
全てを投げ出したくなるほどつらい。
おおよそ結果が出ないとわかり始めた11月、12月は
ネバーエンディングストーリー的に言えば
虚無の嵐との終わりなき闘いだったとも言える。

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久しぶりに凧を上げた。
風にのって見る見るうちに遥か上空へ舞い上がっていく。

楽しかった。

小学生以来の凧上げだ。

あまりに上がるので翌朝、凧糸を買い足して(笑)
また上げた。
IMG_0599.JPG

どこまでもどこまでも上がっていく凧。
走りまわって上げ続けた。


今年、公の自分はボロボロだった。
見事なまでの完全なる負け戦だった。

が、私の自分としては三人目の子供となる長男を授かり、
家族全員の健康にも恵まれ、
最高の年だった。

歩き続けなければ。
僕はまだ成仏はできない。
だから来年も
ただひたすらに
歩き続けよう。

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今年もありがとうございました。
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pp(ピアニッシモ) [日々思うこと]

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↑駅近くの薄暗い路地に小さく咲いていた。

先日、某クラッシック系の音楽雑誌の表紙に
「あの娘のフォルテはなぜうるさいか」
という表題を見て、
思わず手に取った。
詳細は省くがその中の記事に感銘を受けた。

楽器(この記事ではピアノ)のフォルテは
あるレベル以上は絶対に上がらない。
表現する上でのダイナミクスの幅を広げたいなら
フォルテではなく、ピアニッシモでの表現を探るべき。
その探求はある意味無限大である。

これには二重にやられた。
一つは単純に楽器表現での話。
自分の楽器の物理的なフォルテを
勘違いしたまま続けるのは
非常に危険だ。
原因が単純なだけにそうと気がつかず
根本的に不可能なことを実現しようとして
練習を重ねてしまう。
僕の楽器ドラムは基本的に他の楽器にマスキングされた音、
電気的に増幅された音とミックスして楽しむ楽器なので
フォルテを勘違いしやすい。
ギターアンプにもマックスがあるように
ドラムセット自体にも音量の限界はあるのだから。
「ピアニッシモでの表現の探求は無限大」
という言葉はこれからプレイしていく上でも
肝に銘じていきたい。

二つめはもっと社会的にというか。
今周りを見渡すと
熱病にかかっている人が多いと感じる。
皆、社会的な経済的な大成功を夢見ている。
分かりやすく言うなら‥‥‥‥
社会的にやりがいのある仕事につきたい
高級車が欲しい
映画のような結婚生活をしたい
カリスマに、ヒーローに、スターになりたい。
その他、無限大。
まあ日本のような経済至上主義的な思想のもとに
小さい頃からこの国で育ってきたら
当然の結果というべきか。
もちろんそういう目標というか、夢は大切だ。
僕もよくロト6一等2億円が当たった白昼夢を見て
一人ニヤニヤしていたりする(笑)
ただそうならないからといって
自ら不幸になっていく人が多いと感じる。
これらは皆音楽表現におけるフォルテの競争のようなものではないか。
誰もが皆、自分の音を強く響かせることばかり考えている。
遥か昔、地球上を支配した恐竜は何故滅びたのだろう。
このままではそう遠くない未来に
地球上の全ての物を食い尽し、破壊尽くして
人類は滅びるのかな、
そんな風にぼんやり思ったりもする。

もっともっと社会全体が地球全体が
ピアニッシモの表現を探る探求にステイタスを
感じられるようになっていったらいいな。
幸せとはほんとに何気なく、静かに
そして目の前にあるのではないのか。
そう感じられる繊細な感受性が
自分を、他者を、
不幸から守ってくれるのではないのかな。

自分の経験上、
楽器のことを通してしか
はっきりとしたことは言えないのだが、
ピアニッシモは難しい。
ただ大きな音を出すのは初心者でも出せるのである。
小さい音はそうはいかない。
ドラミング的観点からすると
小さい音を出すほうがむしろ体力は必要なのである。
そして本当のフォルテも、また難しい。
真のフォルテは全ての悪を葬る必殺の一撃だ。(笑)
うるさい音と強い音
ただ小さい音と繊細な音とは
似て非なるものだと思う。
さて今日もまた
「小さな幸せ」
を楽しもうっと。








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share [日々思うこと]

ll 022.JPG

最近、円形のステージが好きである。
これ、マジで最高です。
http://www.youtube.com/watch?v=eCYXL86rdug&feature=related

ピーターガブリエルは昔からファンで、
日本武道館でのライブは今まで見たライブの中で一番すばらしかった。
「SO」 「US」 の二枚のアルバムは本当に良く聞いた。
特に「US」の方は僕の中では最高の洋楽アルバムで、
多分今でも歌詞カードなしにほぼ全曲歌えるはずだ。
上記したURLのイタリアでのライブ、
これも最高である。
この円形ステージでのパフォーマンス。
なぜかピーター本人を含めてスキンヘッドが多いバンドには
なっているが(笑)、ホントに最高。かっこいい。
僕のフェイバリットベーシストであるトニーレビンのベースも
冴えまくってます。ロングコートもかっこいい~。
この各パートを対等に配置したステージ構成。
ボーカルばかりでなく、他のバンドメンバーはもちろん、
ステージ地下で仕事をしているスタッフの顔まではっきりと
写している映像の演出。
ピーターの使う小道具(PC、タンバリンなど)全てが
彼自身の発想ではないにしても、彼の許可なしにこの映像は
見れないと思われるため、
さすが真のスーパースターは違うなあ と感動しながら思った。
今の時代、独裁はもう古い。
誰か1人を王様のように演出するやり方は
繰り返すが古いと思う。
これからの時代はいかに「share」するか、
これが最高にいかしたことであると思うし、
また世界中がそうなっていって欲しい。
僕にはこのライブでの各パートの配置、構成から
ピーターガブリエルのメッセージを受け取った気がした。
ピーターガブリエルの持つ知名度、才能、ボーカルというパート、
彼がカメラレンズを独占することはもちろん可能だと思うが、
彼はもうそれが時代遅れであることを充分知っているのだろうな。
仲間とshareすることが一番美しく、そしてかっこいいのである。
話は少しそれるが、
宗教ももはや古い。
信仰の自由もあるが、言論の自由もあるので書かせていただく。
宗教は20世紀までのもので、過去のものだと思う。
思想のシェアは不可能である。それは最終的には侵略に変わるだろう。
歴史を振り返る時、宗教は常に戦争と共にあり、そしてそれは今も変わらない。
だが感性のシェアは可能であると思う。
思想は一人ひとり違っていい。むしろそれは自然である。
「share」ということが良い意味で世界の隅々に浸透したなら、
そこには宗教も戦争も存在できないのではないだろうか。

そんな夢想めいたことを思ってしまうほど、
このピーターガブリエルのライブ、素晴らしいです。







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